資本論 剰余価値 剰余価値学説史  MBA
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苦労しろ大学 

ネット大学を目指します とりあえず東洋医学の普及です 鬱・頸椎症 西洋医学で見放された人はどうぞ

剰余価値説と可能なる共産主義モデル 苦労しろ大学 経済学部 最先端の共産主義学科

剰余価値学説史 異端説 くろしろ―書店 苦労しろ大学

これも参考に!!!kurosiro1.hatenadiary.jp


まず本物の共産主義とはスーパーピューターをできるだけ改良することです。
その一番すすんでるのが量子コンピューターですね

そしてゲーム理論のマーケットデザインをつかって

マーケットをデザインしていき

搾取を減らし、福祉厚生を 成り立たせ 涅槃寂静を配分することです

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もちろん今は目標です

これが私が考えた新しい共産主義

ネオMBA共産主義です


救世主として今まで黙っててごめんなさい。

僕はずっと闘わなかったです。

弱い物を助けることや
強い者が能力を発揮できないことや
ほどほどの人がほどほどに生きることから



ぼくはIQ97の普通の人です。

努力だけできました。

でも闘います

とりあえず資金が居るんでシラバスと講座買って下さい。


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「これは参考です読める人だけよんで下さい」

「まずマルクス剰余価値説の批判をするがこういう流れになっている。
スチュアートという商業利潤主義者をマルクスが批判して、重農主義から、労働価値説をアダムスミス、リカードをへてとりいれている。主流派経済学の発展で商業利潤説が再び蘇るのだがマルクス経済学はこのままだ。労働価値説。私はマルクス重農主義から、天然価値を取り損ねたことが、すべての失敗だと見ている。少なくとも次の集合を天然価値から取り入れられなければならなかった。曰く労働、活動、道具・機械、技術、情報、精神、素材、交換、社会、権力、老廃物。これは理念型的ものだが、こういう理屈である。マルクス重商主義から人間の労働コストを取ることは科学ではない。天然素材からはより多元的に価値が生まれるはずだ。そういうわけで理念型的に価値を増やして見ることをこころみる。それは結局、価値形態論を否定し、のちに一般均衡の中に共産主義を見るだろう。

マルクスの剰余学説批判

はじめに批判されるスチュアート。もちろんこの人は安く買って高く売るということを唱えたにすぎない。彼の積極的利潤は、労働、勤勉、熟練等の増大により社会的富が増すものとしている。ここら辺は重農主義の流れだろう。
一方相対的利潤は資本家どうしで利潤を奪い合うものだ。

マルクスはこれを徹底的に攻撃したかったわけだ。彼は結局やすく買って高くうることが許せなかったにすぎない。
だが、ここから異端説だが安く買って高く売り、その結果積極的利潤としてこれを蓄積し、相対的にゼロサムで奪い合うという発想がそんなにアブノーマルだろうか?
少なくともそのアブノーマルさにマルクスの論証を長く必要とするものと言わざるを得ないが、それは全くないのである。

現代的解釈で言えば安く買って高く売り、ゼロサムで相手に迷惑をかける商売人は金融資本にしろ帝国主義にしろ何処にでもいるではないか。



重農学派をマルクスが重視したのはまず、スチュワート的商業価値をマルクスが否定し、その重農主義から生産的な労働価値説が出てきていたからにすぎない。地代は彼らの剰余価値であった。
だがここで異端説だが、マルクスは決定的な見逃しを行う、重農学派が自然と向き合っていた、いわば天然価値を、彼は農業の生産力が商業より高いためという理由で切り捨ててしまう。ここはエコロジー、道具や機械、技術、知識、社会、権力の自然の剰余価値を理解できなくなるつまずきだった。だからのちに彼は剰余価値説、価値形態論で間違う。

天然価値しか物質的には価値を生むことはない。商業価値(交換)という価格システムで一応維持されているが怪しげなものが世界を覆う時、エコロジカルな危機が出てくるのは当然と言えよう。

重農主義の矛盾は土地を離れず工業化に寄らねば資本主義は発展しないのに封建制であったことである。
これが正統派のいう矛盾である。
だが異端発言だが資本主義の工業化としての農業は現在ある通りである。
だがそこにマルクスは労働価値説の源流を見た。

ケネーは生産階級(農民),不生産階級、土地所有者といった。
テュルゴーはもっとはっきりと剰余価値の存在を示した。
だがテュルゴーにおいて剰余価値は自然の賜物、天然剰余価値だった。マルクスが労働価値説だけを取り出さず、天然価値説を取り出していれば今日のエコロジー社会へ変わったと思うのである。

ここでマルクスを読み返すのはピケティブームだからである。
データを用いてクズネッツの結論を覆すというようなところだ。
つまりこの世は格差社会というわけだ。だがそれを覆すアイディアはすでに出ている。それがワルラス、アロー、ドブリューの一般均衡だ。
マルサスとヤングがフランス革命に論じたところではちょうど古典派が労働価値説を確立させる時だ。
つまり天然価値が忘れられ商業価値が忘れられ、という具合だ。
ピケティの格差解消論も環境問題には及ばない。
もしも重農主義が天然価値を持っていたなら今ピケティの分析も違うはずである。


スミスやリカードの経済学説はいう。
スミスは重商主義を批判して、貨幣ではなく、国内の生産力アップが必要だとした。そのためには分業だ。
分業が起きると手段資本は蓄積していく。召使いみたいな不生産労働を止めて
生産性労働をすることをすすめる。これが労働価値説の基礎を築いた。
水と貨幣のパラドックスというのがあるが、交換もまた使用価値ではなかろうか。
だが文明が加速すると労働の賃金、利潤、地代を合わせた自然価格になるとした。
だがスチュアート流の市場価格でそれは否定される。いわゆる需給だ。
需給においてコストの一部分にすぎない労働は過少評価される。
もしもスミスが労働価値説ではなく天然価値説をとり
様々な、天然から生まれる労働、活動、知識、道具・機械、社会、権力うんぬん。
完璧なものはできないが、蓋然性からモデル化していれば、
支配労働価値説はコスト的に支配天然価値説になり、需給と連なり成功していたはずだ。
リカードの投下労働価値説も成功せず、
その後の限界価格革命も成功せず、価値と価格そのものを問う経済学説が有効になったであろう。


だがスミス、リカードがが重農主義から影響を受けていたのは間違いない。生産的労働とは自然労働の影響だ。ここで重農主義から天然価値説をうけいれなかったのだ。
要するに天然価値の剰余生産力、つまり生物の成長と道具や機械、知識、技術、社会、権力そのもの天然価値としして剰余価値を与える。
あとリカード比較優位のようにやはり自然価格に加えてスチュワート流の市場価格がシステムを作る。
まずコストがあり、それを市場価格が決めるのではということだ。

比較優位のダイヤモンドは比喩である。水とダイヤモンドのたとえの、ダイヤモンドの使用価値である。
交換そのものが使用価値なのだ。天然素材なのだ。

他にも剰余価値説を見てみよう
まずテュルゴーもケネーも資本主義的大農業を支持していた。
ケネーは絶対王政テュルゴーは急進的ブルジョア閣僚だった。
シュマルツは地代のみが国家の収入にした。
クストディは工業にも剰余価値を発見した。

ピケティに話を移すとクズネッツ曲線は格差縮小の良い知らせだった。
分配の問題を経済の問題に移すことそれがピケティの核心だが、経済とはそれだけだろうか。
公平な分配でも問題はある。
正確な分配の社会で問題はないのだろうか。
そこでドラッカーに登場してもらった。
企業の成果から見てみよう。顧客の創造。
これは天然価値と労働価値、商業価値からなる使用価値を持つ層を
作り出すということである

だが顧客を生み出すだけでは、足りないと思う。
私は顧客を教育、自主教育するべきだと思う。
価値で作られているものは限りがあるからだ。
なぜなら全ては元を正せば天然資源である。
マーケティングして顧客の欲望の満足に行く先は破滅しかないのかもしれない。
顧客の欲望に際限が無いなら。
イノベーションして新しいものを我々はどれだけ作れるのか。昔からああものの焼き直しが多いのではないか。
ドラッカーは続けていうが
生産性として。知識。知識だけで行動できるか。
時間、これはその通りだけれども、時間の犠牲にならないものもあるのではないか
製品の組み合わせ。 純正品だけではなぜいけないのか
プロセスの組み合わせ。純プロセスではなぜいけないのか
自らの強み。弱みは活かせないのか

組織構造の適切さ、組織だけがそんなに大事か。

利益は成果の判定基準だが、それがないと商業価値を持ち得ない。
利益は不確実性に対する保険だが、利益を出す構造そのものが不確実性を出すこともある。
利益はより良い労働環境をもたらす原資である。これは利益だけか。
社会的文化サービスを行う原資である。それを破壊している面もあるのではないか。






ここパオレッティの剰余価値を見よう。
農業だけが富を創造する。
これは労働だけが富を創造すのと似ているのではないか。
重農主義的天然価値からは生産物として労働、道具、機械、そして天然価値の作用そのものが生まれねばならなかった。

ピケティはリカードの長期停滞の原理が、工業化で止まったことを指摘している。
だが工業化はもともと天然価値がそうできる一形態にすぎない。工業化、農業価値化、様々なーサービス化の天然価値が下がれば停滞は今後もありうる。
それに対抗するには新たな天然価値を探すしかない。

ピケティは生産手段が資本家の手にわたる無限蓄積の定義を今日的でないとしたがそれは、天然価値が有限であれば当然である。



天然価値をマルクスは否定するが、そこにはゆたかな源泉があるのではないか。
我々は交換価値を作り出す、だが交換価値は使用価値の一側面でしかない。
それが暴走すれば環境問題などですぐやられる。

ここにカント的な定言命法がでてくる。
なになにすべし、それは天然価値説の世界を理解したものだけがはっすることばである。
天然価値と商業価値をするもの。ヘーゲル流の絶対知をそなえたものの言葉である。
そのような顧客なら全て上手く行こう。
だから顧客の創造とはただのわがままものの創造ではないのである。彼はなんらかの人倫を得なければならない。
結局スミスもマルクス重農主義を脱していない。商業の分析が不十分だからである。そして商業価値の問題は顧客の人倫なのである。
結局その意味でスミスの市場至上主義は間違えていた。個人の欲望ではなく、人倫的欲望がやはり必要なのだ。
セーの法則は現在に新古典派の源流であり。供給が需要を作るが、供給と需要がまず価値する基礎需給がなければならない。そのあと商業価値の元での供給が需要を作り出すということもなくはない。じばにゃんをみよ。市場に作り出される欲望。それが需要になり供給が需要を作ることもある。
だがここでも必要なのは人倫だということだ。欲望に任せていれば滅ぶ。

剰余価値学説史に戻ろう。
ラムジはいう商業価値と労働価値のより大きなものが剰余価値だと、
彼はマルクスより剰余価値を理解していた。
マルクスはラムジに対して不変資本で論争をふりかけるが、それはただ商業価値を認めたくないだけである。

マルクスの源流は重農主義である。自然だけが価値を発生するところが労働だけが生産力をあげることに変わり、不変資本という概念を作り上げた。
労働価値というのは重商主義者が金銀だとか、重農主義者が農業だと言っているのと同じようなものである。

重農主義は天然価値、商業価値、労働価値の元である。天然価値はトマトが塾するように、機械が剰余価値を発するのをみいだすのだ。

他の剰余価値学説史を見てみよう。ガニル
ガニルは富を過剰労働といった。これだけでもマルクスの怒りを買うだろう。
また一般的労働といい、貨幣を重視した重商主義者だったまた交換が価値を高めるといった。
ここまで正統派解釈。

ここから異端。だが過剰労働でも富は出るし例えば労働価値に商業価値が乗っかれば交換は価値を持つのではないか。


ペティ
重農主義は環境問題からいうと今日的な意義を秘めている。土地や自然というのは剰余の基本の一つであろう。風土とにより剰余が発生するのもうなずける。農業・地代はそもそも天然の希少さ、と労働、技術、手段資本において開発されるものである。


ダヴナント
外国貿易である。これも自由貿易が標準理論であるミクロ経済学から言えばおかしなことではない。彼の説は少々違うようだが。


ノースとロック

ロック


剰余は利子及び賃料、その源泉は土地と貨幣資本。

生産手段の所有の政治的発明は、商業手段の所有にも言えるだろう。
労働を個人所有としている。
個人的所有の限界は労働、あとは共有地。

利子と地代は労働だから同じというが、労働価値、だけでなく、天然価値、商業価値を含めてると思う。

ノース
自由貿易、ストックという意味で貨幣・手段資本を理解していた。

ヒューム
労働、地代、利子
商業価値、労働価値の蓄積による快楽主義を予想していた。
私は天然価値、商業価値、労働価値である。

マッシイ
利子を利潤の一部とみなし手段資本の増加が利潤率低下とみなしていた。


ジョーンズ唯物史観

重農主義

環境問題に影響。
天然価値。
資本の理解。
労働価値説への貢献。

地代、天然価値、商業価値労働価値説。

パオエッティ

農業のみが工業に比べて価値を形成する。
そうとは言えない。自然の希少性を生産する意味では工業も同じだ。
労働価値説は明らかに重農主義の影響を受けている。

ヴェリ

農業がやはり価値生産の元だが、工業も上記。
重農主義はしかし環境問題につながるところがある。

ガルニエ

労働価値説は明らかに重農主義的影響を受けている。
農業が価値を作り出し、工業は価値を作らないというのは、可変資本と不変資本を思い出す。




土地貴族が社会を構成するために存在し、労働者は空費であるというのは明らかに行き過ぎであるが、経営者もまた社会構成体であるとは言える。


イギリスの匿名氏


生産としての農業者、工業者、防衛者、教師。—


ネッケル

農業における労働剰余価値説にちかい


ランゲ


富者はすべての財産の横領、
法律はこれを神聖化。

抑圧権
奴隷制


こういったブラックな側面が社会にはある。

同時に権利を守るものでもあるが。



ケネー経済表


不生産階級というものが工業階級では曖昧。
なのであまり立ち入らない。

純粋消費者を想定しないと意味がない。

経済表自体への合理性はあるが、地主を除いて二生産部門の間の流通と言える。

剰余生産と天然価値の予算制限を表さない。

フェリエ
生産階級と不生産階級否定いする。
浪費的であるか経済的であるかである。
ローデダールとセイ
非物資的生産も生産労働とする。

剰余価値学説史 正統派解説 異端説
テュスティット 生産者階級 労働者 不生産者階級 産業資本家 労働に商業価値をつけてうる。

ロドベルトゥス

農業は原料を必要としないで、特別利潤を得る。

マルサス

商品交換の中で

トレンズ

蓄積労働


ジェイムス・ミル


より多い剰余価値を得るための賠償理由


ペイリー

交換関係

マカロック

使用価値の変化

ホジスキン
蓄積労働


こうして見てみると様々な剰余価値説がある。

だが重農主義的な労働コスト一元論、不払い労働論に沿わないものは全部カットである。マルクスも罪なことをしたものだ。

もちろん柄谷行人のいうエンゲルス陰謀説もあるかもしれない。
だがマルクスは労働価値説論者だったし、それは変わらない。

さてここで天然価値を示すと価値形態論がなぜ成り立たなくなるか示そう

一冊の本=五本の釘

ここにはすでに価値が埋め込まれているからである。

つまりこの交換それ自体に交換の意義、情報、市場社会、市場社会を守る権力、労働、道具、消費活動のための労働と道具という価値が見逃されている。それは蓋然的にあるものではあるが。

重農主義的に考え直すなら、労働のみが天の恵みであったわけではない。
労働価値説の問題は重商主義重農主義を批判しながら、同じ思考に陥っていることである。いわば天の恵みは財貨でとかいう重商主義や、天の恵みは農業でという重農主義と同じく天の恵みは労働でということである。
しかし天の恵みはもっと多元的だと考えるのが自然なのではないか。
そういうわけで、ラフなスケッチを考えると
労働、活動、道具・機械、技術、情報、精神、素材、交換、社会、権力、老廃物。これらをもってしてもラフなスケッチだが、こうした多元的な価値論から出直すしかあるまい。


2

アダムスミスは個人の利得を求めて市場を作るはじめの経済学者と言われているが、彼の考えから発したミクロ経済学は完全競争を主体とする。そこでこの天然要素から改めて企業像を考えよう。企業は各価値を使うから財は同質でなくイノベーション富んでいる。寡占的競争ないしは独占的競争がまず思い浮かぶ。企業はここから始まる。その後でイノベーションの限界がきてコモディティ化したのが完全競争市場である。
さて遠い未来イノベーションの行き着く先、コモディティ化した商品が完全競争の一般均衡になる。その時厚生経済学の第二定理を使って平等に分配すれば、それはもしかして共産主義と呼べるのではないか。


我々が天然価値をすべてイノベイトし、全てコモディティ化し、アロードブリューの一般均衡で、厚生経済学の第二定理で公平に、しかもカントの定言命法的な、天然価値のこれだけを消費しろを理解したら、環境問題も免れ、本当の意味での共産主義という選択肢があるのかもそれない。心の問題もある。満ち足りる仏教的な悟りもまた必要ではないか。何故なら餓鬼道におちいらないためである。