資本論 剰余価値 剰余価値学説史  MBA

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多元的価値論に寄る価値形態論批判

私はまずここで、価値を様々に考えてみた。そのすべては天然から出るものである。科学技術も天然の文明的利用だという観点を含めて。

その上で新しい剰余価値説を打ち立ててみた。
まず価値から見ていこう。
これは数学的には集合だが厳密には、集合ではない。
例えば人間の活動といった場合に心の作用もあるだろうがあえて分けてある。
論理的厳密性より論理的蓋然性を重視した。カントではないが、物自体には届かないのである。

まず私は価値の集合を労働・活動L、道具K、心M、技術A、自然N、社会S、権力P、交換E、情報I廃棄物Wに分けた。

これが集積したり、分解して、剰余を生むのである。
そもそも皆さんに人気の価値形態論を考えて欲しい。
100mlのコーラ=五本の釘等という表現は。
私の提示する価値LMSPEIというメタ条件の集合の元に成り立つのである。
交換する活動。心。情報。市場という社会権力、がその背後に必要なのだ

だからこう言える。価値をあぶり出す行為そのものが、価値に支配されている。それが価値形態論である。要するに労働価値説はフィクションだ。

私の場合、天然には価値がある。ある集合で表されるという単純な三段論法で書いている。論理的に詰めるとなぜそうなのかというのが蓋然性に過ぎないわけだが。

まずこれまでに見たとおり、重農主義から発展した労働価値説には論理的根拠は労働が重要な根拠であるということしかなかった。だが、全てが天然から出たコストだとしてみると、そして新たな剰余価値の元なのではないかと。