資本論 剰余価値 剰余価値学説史  MBA
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アダムスミスまで正統派と異端と人倫

正統派剰余仮設学説史解釈と異端

アダムスミスは完全に労働価値説に立ったのである。

でも彼の労働価値説は投下労働価値説と支配労働価値説が矛盾していた。

もし彼がスチュワート流に支配労働価値説は市場価値、需給であると
認めるならば問題はなかった。だが彼は支配労働価値説で中途半端だったし、投下労働価値説では、市場価格や需給とは手を切ったのである。悪魔でも生産だった。

ある意味でこの姿勢は正しい重農主義は天然主義である。需給が何を生産するというのか。どこが天然価値なのか。何を生産するのか。


だがこの姿勢も需給が使用価値であることから覆る。商業という社会システムという使用価値を作るものであるとするなら商業価値も天然価値なのである。
ちょうどぶどうを発酵させるとワインになるようにシステムも使用価値だ。

そしてこの商業価値の行き着く先がドラッカーだ。

顧客が全て正しい。

顧客が全て正しいとどうして言えるのか?

顧客は天然価値を、労働価値を、商業価値を知り尽くしているの言えるのか。


ここにカント的な定言命法がでてくる。

なになにすべし、それは世界を理解したものだけがはっすることばである。

天然価値と労働価値と商業価値をするもの。ヘーゲル流の絶対知をそなえたものの言葉である。

そのような顧客なら全て上手く行こう。

だから顧客の創造とはただのわがままものの創造ではないのである。彼はなんらかの人倫を得なければならない。第一彼は経済合理人でなければならない。


スミスに戻れば、労働価値を高くううる。マルクスに認められた。利子も剰余価値の一部であり、税金もそうである。

だからそれがどうしたのか。

商業価値から見れば地代は集客力にもよる。ネット起業家ならこの意味は痛いほどわかろう。そこから税金も出るのだ。

結局スミスもマルクス重農主義を脱していない。商業の分析が不十分だからである。そして商業価値の問題は顧客の人倫なのである。

結局その意味でスミスの市場至上主義は間違えていた。個人の欲望ではなく、人倫的欲望がやはり必要なのだ。

セーの法則は現在に新古典派の源流であり。供給が需要を作るが、供給と需要がまず勝ちする基礎需給がなければならない。そのあと商業価値の元での供給が需要を作り出すということもなくはない。じばにゃんをみよ。市場に作り出される欲望。それが需要になり供給が需要を作ることもある。
だがここでも必要なのは人倫だということだ。欲望の任せていれば滅ぶ。


ラムジはいう商業価値と労働価値のより大きなものが剰余価値だと、
彼はマルクスより剰余価値を理解していた。

マルクスはラムジに対して不変資本で論争をふりかけるが、それはただ商業価値を認めたくないだけである。


マルクスの源流は重農主義である。自然だけが価値を発生するところが労働の生産力に変わり、不変資本という概念を作り上げた。

不変資本というのは重商主義者が金銀だとか、重農主義者が農業だと言っているのと同じようなものである。


重農主義は天然価値、商業価値、労働価値の元である。天然価値はトマトが塾するように、機械が剰余価値を発するのをみいだす。マルクス経済学と新古典派の縁談もあるのである。

マルクスはこのうち労働価値説しか見いださなかった。


とりあえずアダムスミスまで剰余価値説の正統派と異端はおわる。

だがここで問題は人倫である。