資本論 剰余価値 剰余価値学説史  MBA
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なぜ、安く買って高く売れないのか?

異端説

マルクス資本論はまず安く買って高く売れることはないとする。この流通論から見て行くことにしたい。ここでも哲学的な理屈が色々あるのだがそういうものは無視する。問題はなぜリンネルをつくるひとが、それを1000円で売り、その1000円で聖書とかえるのかだ(貨幣価値はわかりやすくしてある)。まるで、等価交換のブックオフが方々にあるかのように。ここがまず異様だと思う。つまり買うためにリンネルを売り、聖書を買う。商品から貨幣へ、貨幣から商品へ。

商品から貨幣は「命がけの飛躍」というように困難であるとマルクスは書いている。
だが異様なのは、何故、彼等は等価交換するのだろう。不等価交換で儲ければもっと聖書が買えるではないか。この社会分業は他の競争者に取って代わられる可能性があるともマルクスは書いている。彼のリンネルの価値が社会的労働であろうとそうでなかろうと、要するに市場の競争が激しく等価交換と言いたいのだろう。このようにして買うために売ることで社会が繋がっているのは、一見当たり前だが、その市場形態は異様であると言える。もっと競争が緩い、または売り手の交渉能力が高いポーターの、ファイブ・フォーモデルのようなのも考えられるからだ。
ここでは相変わらず労働価値説であって、市場は価値実現のための道具にしか分析されない。市場の分析が恣意的で、初めから売り手と買い手の交渉力が同じような市場を想定している。またそうでなくとも価値法則のために売り手と買い手の不均衡が労働価値で均衡するモデルが考えられている。それは想定にすぎず実証ではない。ピケティがマルクスにはデータがないというのもこういうことだろう。

今度は貨幣から商品を買い、貨幣にする運動が描かれる。そして特殊な市場形態、つまり商業手段が労働価値で規定される、等価交換である市場形態で、どうして剰余価値が派生するのかについて描かれる。生産手段を持った工場主が、不払い労働をかすめ取る搾取こそが剰余価値なのだと。だがここで注意してもらいたいのは、商業手段と軽く書いたが、その優劣で、安く買って高く売る利潤がどこに消えるのか?
そのメカニズムが全然明らかにされていないということである。利潤が剰余価値の外観であるという議論を避けるため、商業剰余価値という造語を作り、労働価値と商業価値で説明することにする。


まずマルクスの議論は剰余価値説ありきだ。不払い労働が剰余価値である。その結論があって、前提に商業手段が労働価値に規定された特殊な等価交換の市場形態があり、その前提が労働価値説である。剰余価値説の完成のための労働価値説なのだ。


そこでここでは、商業手段というものを考えてみよう。コンビニ、スーパー。牛丼屋。図書館の喫茶店、衣類店。ゆうちょ銀行。ブックオフ
どこでも安く買って高く売る不等価交換を放棄しない。ブックオフの本の買い叩き、コンビニ、スーパー、衣類店、図書館の喫茶店、牛丼屋の原価で買い叩き、そしてマージンを乗っけて高く売るのはどこでも見られる。ブックオフは特に露骨である。ゆうちょ銀行は金利をのっける。もちろん搾取もあるのかもしれないが労働価値だけで規定された市場にはどうも見えないのである。そして一番の問題は彼らにものを売れないということである。ブックオフいがいに。ブックオフも安く買い叩かれる。

他にもいろいろな価値があるのかもしれないが、労働価値と商業価値に絞ろう。
すると、ようするに力関係だ。労働価値は生産手段が不均等だから力関係で搾取が起きる。商業価値は商業手段が不均等だから安く買って高く売るのが起きる。
マルクス資本論の「貨幣から資本への転化」で商業手段が均等な等価交換の市場があると書いている。だが現実にはそれはない。労働価値と商業価値に絞るがそれぞれ剰余価値を出し、資本を形作っているのである。さらには天然の剰余価値もある。
それを示したことがマルクス剰余価値説への本質的な批判となろう。
そして剰余価値説は資本論の基本である。これが崩れれば、マルクス資本論のモデルも見事に崩れる。

あとは剰余価値学説史を読んで、どうしてマルクスがそういう考えに至ったかを見てみよう。


ざっと見てみたのだが商業価値に関する考えはスチュアート以外にない。他にも面白い考えはあるが、あえて見捨てられているスチュアートの考えを自分なりに整理してみよう。まずマルクスはスチュアートの積極的利潤が、商業価値の表現だと気づいていない。商業的価値を積極的に推し進め、労働や勤勉や熟練により安く買って高く売って商業剰余価値を蓄積し、貨幣的に商業剰余価値を蓄積する。重農主義や労働価値と違うところは、その環境破壊的な側面、財の希少性の浪費を推し進め、環境問題を起こしてしまうところだ。また相対的利潤は南北問題など開発のためには他者の利益を傷つける側面であると解釈できる。
搾取の悲惨とともに考えられなければなるまい。


重金・重商主義は交易が利益をもたらすということから考えるとさしておかしくもあるまい。現象論としては考えられることだ。